昭和41年3月9日朝の御理解
例によって昨日、東京から歌舞伎の本を送って参りました。見せて頂いておりましたら、こんなことが書いてあった。「それぞれの役をいわゆる演技するのには、性根というのをまずつかまなければならん。特にこの二枚目、いわゆる色男を演ずる時、二枚目を演ずる性根は三枚目になった性根」と、こう書いてありました。私は、これを聞いてから素晴らしいとこう思うた、確かにそうですね。あの梅川ちゅうべえのちゅうべえをみても、かみじのじせい?を見ても、確かにあの二枚目の性根の中には、三枚目の、演技はその艶物であるならば、その艶をだなければなりません。いわゆる三枚目というのは、ちゃり役ということですよね。おどける役なんです。けれどもなるほど、性根は三枚目、これを、私ほんとに何の道でも同じだと、極めに極めていったら、そういう素晴らしいことが言えれるんだな、ということを私、感じたんです。二枚目の性根は三枚目とこう、ちゃり役の気持ちが二枚目には必要だとこう。みなさんお道の信心をさせて頂いて、ほんとに御徳を受けていかなければなりません。御徳を受けなければ、幸せはありません。
夕べは、青年部会でございましたけれども、中に誰だったでしょうか。ああ、内田さんだったでしょうか、内田さんだか、原さんだったでしょうか。話しておられます中に、あ、原さんでした、あの新聞を見ておったら、最近は新興宗教が、はびこっておるわけです。けっこうなことですよね、人が助かるというのですから。それをあるえらいお坊さんが、評して言うておられる。新興宗教は、いわゆるお導きもやる、愚にもつかないことを、まあ、人間の一番弱点をつかんで、「あんたそれならば、私の宗教に入りなさい」と言うて、導き歩いて一番初めに聞くのが、「あなたは幸せか」、「あなたは幸福か」、といったう事を聞くそうです。
すると。たいがいの者が、もう、また不幸せそうな病気があるとか、難儀があるという人のところにしか、お導きに行かん、と。「実は、病人がおってから、体が弱ってから、お金がなくてから、ほんとに困っております。」「それなら、私の宗教へ入れば、病気も治る、お金も儲かる」と言うて、必ずそういうことを口実にしてから、その導きをするのだと。そこで「幸福とは何かと、反問するくらいな人物じゃなからにゃあいかん」、ということを書いてあったと、原さんでした、そういう話をしておられました。それを聞かせて頂いてからですね、幸福とは物とか金とか健康とか、というのでは勿論ありませんけれども、「幸福とはあの世にも持っていけれるというものを身につけたものが、幸福だ」と私直感したんです、それ聞きながら。信心させて頂いておるほどしの人ならば、あの世を否定するわけにはまいりますまい、みなさんどうでしょうか、自分は信心を頂いておったから、あれだけはあの世へもっていけるぞ、というものが皆さんの心の中にあるでしょうか、お金を貯めても物を貯めても、どういうようなものをおかげ頂きましても、それがあの世へ持っていけれるものを、自信が、確信が持てれるものを、みなさんの心の中に頂いておられるでしょうか、「極楽か 地獄の果てかは 知らねども 喜びだけは 持っていきたい 」、これは私の、私の気持ちです。これは、十何年前の御理解です、さあ私どもの行き先はです、地獄か極楽か分からないんですけれども、どこ行ったって喜びだけは持っていきたいと。
先日、学生会の方達が新聞を出しております。その新聞の、新聞名ですね、学生新聞ですから学生新聞だけでもいかんから何かあれをくれというて、幹部の人たちがお願いに見えて参りました、私、御神米を下げましてから神様にお願いさして頂いたら、「根賀以」ということを頂いた、「根賀以」というのは、木の根の根、賀は賀正の賀、喜びという字、以という字は何々を以ってという、以、「根賀以」。そして、それに私、御理解を心眼に「合掌しておる姿」を頂いた。そして、御理解に、「賀びを以って根とする」、という御理解を頂いた。
信心はもう、それは願いにしろそれは何にしろです、神様の前に出らして頂いておかげを頂くということはです、私の心の中に、どうぞ和らぎ賀ぶということを頂かして下され、ということが一心に願うことであり、今月今日ただ今を願ってもう、それ以外にない、と天地書附におっしゃってられますよね。「生神金光大神 天地金乃神一心ニ願え おかげは和賀心にあり」、その和賀心、和らぎ賀ぶ心を頂かせて頂くということが根本なんです、それが根なのだ。信心の根、その根であるところの喜びをです、信心の稽古を十年、二十年、または三十年と続けさせて頂いてです、これをいよいよ頂いていく、この根だけは、いわばどこへででも持って行かなければいけません。まして、あの世へ行く時には、それか地獄か極楽の果てかはわからんのだけど、喜びだけは持っていきたいというのが、真実、私達が願いでなければならないと思うです。
幸福とは何か、幸福とは、別に、私現在、お金を大して持っているわけでもなければ、健康、たいした健康というわけでもない、様々な難儀という問題を沢山引っさげてはおるんだけれども、私の心の底には、いつも絶えず、喜びを願う心、またその喜びを頂くことの楽しみ、有難さというものがです、私の心の底に、心の底にあるものはそれなのだと。例えお国替えのおかげを頂いても、これだけは持っていけれるのだと。どういう例えばこの世と同じですね、貧乏なら貧乏でおしまいになりましても、そういう貧乏さして頂いてるけれども、有難いというものをです、ほんとに病気がちな一生であったと、けれども、けれども、信心を頂いておったということが有難かったという、その有難かったというそれを私は、あの世へ持って行きたいという願い。そういうものをもっておるということが、私、幸福なんだとまあ、極言すればです、幸福とは何かと、あの世に持って行けれるもの、を持っておることだ、頂いておることだと、私は思う。昨夜、原さんのその話を聞きながら、私は直感した。
その私、直感したというそれをです、皆さんが、果たして頂いていきよられるだろうか、それを頂いていかれよるなら、あなたは幸福なんです。何もいうことはありません、思うことはありません、「もう、私のこと幸せなもんなあるまいと思います」と言うたけで、ほんなものじゃあない。あの世に持って行けれるというものが、だんだん確信づけられてこなければ。してみると、お道の信心をさせて頂く者のその性根というのは、二枚目の性根は、ほんとに私ども素人では目には想像つかない。
けれども、いわれてみれば、そのものずばりだな、と私が思ったようにです、「二枚目の性根は三枚目にあり」と、三枚目の性根をもっとかなければ、二枚目のいい演技は出来ないというておられる名優たちがです、いわばお道でいうところの名優とでも申しましょうか、ほんとに御徳を受けられたという先輩、初代、私どものからいう御徳を受けられた先生方の御信心を思う時にですね、どういうようなことがそれぞれの共通した性根であったかというとですね、限りなく美しいという方だったということです。言い換えますと、限りなく馬鹿のごと素直であったということです。夕べ青年会の方たちに申しましたことの中に、「限りなく美しゅうならせて頂くということ」、私が言うておる本気で美しゅうならせてもらおう、これはもう、椛目の信心をしておる者の合言葉なんだ。もう限りなく美しゅうなろうや、美しゅうならせて頂こうや、自分のそんためにゃ心の中から汚いものを取り除かせてもらうことに一生懸命、本気で限りなく美しゅうならせて頂こうや、という中には、「あらたまらにゃきゃあ美しゅうなられん、磨かなきゃ美しゅうなれん」、とか申しておりますけれども、それをまた、要約いたしますとですね、「限りなく美しゅうならせて頂くということはね、素直になる」ということです、ということを夕べの御理解の中に説いております。限りなく美しゅうならせて頂くということは、素直になるということ、それなら素直になるということはどういうことかというとですね、ほんとに馬鹿とあほになるということになりますよ、あの人ちょっと馬鹿じゃなかろうか、あの人から騙されよるとよう分かるんだけれども、あれはほんなごつかと思うちから、あげん喜んでござる、っていったとがありますでしょ、そらどんなに賢うもならなきゃなりません、利口もならなければなりません。最近お道の信心で言うておる根性ということ言うております。
確かに、その根性もしゃんとしておらなければ、信心は出来ません、けど、その根底はそのままです、やはり素直なんです。やはり馬鹿とあほうじゃなかろうかといわれるくらいの性根なんです。いわゆる二枚目に三枚目の性根が必要なんだ。賢うなっても、どんなに偉くなっても、その信心さして頂くならば、その性根、その根底にあるものは、その限りなく美しいという心、それを言い換えると、馬鹿とあほうということになるのです。
昨日、もう四時、そうばってん、もう散歩にでも出ようかというときでした、家内が、妹が何か一生懸命「久留米へ行く」ち言いよますもん、そしたら、私の一番好かんもん、川魚の匂い匂いがぷんぷんしますけん、どうしよっちゃろうかとおもうたら、もうたくさん川魚をこうてきとるですたいね、それがもうほんとに私値段を聞いて、私「馬鹿じゃなか、こげん」私「こうてきて」と申しましたけど、その私のまあ義理のおじに当たります、そのお見舞いにいくちゅうですけども、寝たり起きたりしとります。もうそれがちょいちょいその妹が行くんですね。それが私のためには、どういうおじかというと、どっちかというなら、ほんとにあの人とはもうつきあわんち言いたいごたるおじなんです。おばが、私が一番難儀な時分にお金を少し貸してくれた。そのお金を私がもうどうにも出来ない時にですね、もうしゃりが無理にですね、もう催促してから、取って取って取り上げたおじなんですよ、せっかく親切に貸した、もうほんとにそげなことがあっちゃなりませんよね、お互い。もうその一事だけでもまあ私、その気持ちが良くないです、貸してもらいたい時に貸してもらえたということだけでも有難いんですけど、その後があんまりようなか。もうその後において、今度めいめい達が困るようにならせて頂いて、まあ、私がどうやらおかげを頂くようにならせて頂いてから、そら相当まとまったお金を貸しておりますけども、利の事は言えません、最近は、行くとそのこと、もう、うちの兄さんはもうそげなこと言うから、もうおっちゃん忘れなさいと行くたんびに言うて来るというわけなんです。そして、もうそのそれこそ何かと心を配ってから、色んな物をお見舞いに持って行くんですよ。そげなほど持って行かんでよかじゃなかというほど、して行くんです。
昨日も大変川魚が好きだというんで、川魚を頼んどったのがようやく手に入ったからというんで、もう、たくさんなこと、まあ、煮て色々箱に詰めてから持って行きよります。もうほんに私、久富先生と話しました。「もうちょいとうちのスマ代ぐらいほんに馬鹿のごたるのはおらんですなあ」ち。話しよったんです、いよいよ荷造りして、そして、今度は、私がですね、神饌室から「果物持って行ってやり、お菓子を持って行ってやり、これ持って行ってやれ、あそこ、うどんやら、そばやら持って行ってやれ」、私がこうて出してやったですたい、そして、私、後から思ったことが、これは、「ほんに、妹、馬鹿ごとやっじゃい」と言いながら、その上に私まいっちょ馬鹿んごとある、持たせてから、その荷造りまでしてやってから、持たしてやってから、妹を送り出し、私どもは散歩に久富先生と、久富先生と出ながらです、「ほんとに妹は馬鹿じゃあるち」、言いながらハッと自分で気がついてから、私は、まいっちょ上をいっとらなるっぺい(笑)と思ったことですけれどもね、私はね、信心させて頂くものは、そういうものがなからなければいかんと思う。もう嘘にでん喜ぶなら、やらにゃおられんという。私は天地の親神様という方はそういう方だと思うんですね。ようと考えよると馬鹿んごたる、何の為そげんせんならん、何の義理があるか、もう義理とかへちまじゃない、もうそれこそ妹が言いよります。昨日行ってから、夫婦の者が喜んで喜んで、もう大変な喜びだったそうです、もう涙をぼろぼろ流して、まああれが鬼の目にも涙、というてと言うてから、申しよりましたがですね、もう、鬼の目から涙、喜びの涙を流すのなら、もう、例え嘘でも良い、喜ばれるなら、もうどうかしてやらなければおられないという心なんだ。それを聞きながら、ああ、なるほどそれがおかげだなあと、神心とはそういうようなものだなと。天地の親神様というお方はやっぱりそういうようなお方なんだと、この方の道は、喜びで開けた道じゃから、喜びでは苦労はせんと、こうおっしゃる、だから私は、皆さんに申します、嘘にでも喜びなさいち、もう嘘にでも喜べばこの神様は、ほんに馬鹿んごつなっておかげ下さる神様ですよ。
いわゆる私どもが、「信心とはわが心が神に向こうていくのを信心というのじゃ」とこう。私どもの心がです、段々人間心から神心へなっていくということ、そして、神様の心とこう一つになるようなひと時を、われと和賀心を拝みたい時なのです。
もうそこには、神様と一体なのです、その一体にならせて頂く神様が、そういうようなお方なのだから、私どももやっぱり、そういうことにならなければ、ほんとの交流というものは始まらないことが分かるでしょ。お道の信心をさせて頂くなら、それぞれになるほど利口に賢うに、まあ生まれついておる人がありますから、ほんとに馬鹿と阿呆になることは、難しいかもしれませんけれども、信心させて頂いて、いうならば二枚目を演ずるなら、三枚目の性根が必要であるように、お道の信心をさせて頂くならばです、もう本気で馬鹿と阿呆にならせて頂く。赤を白と言われても、初めの間は、これは赤を、これは白じゃないですかと、赤を白と言われてもです、言いよるけれども、いいや、こりゃ白ばいと何べんか言われると、だんだん白に見えてくるぐらいな、いわゆる素直さが必要だということ。
甘木の初代、安武先生を、あるお弟子さんが評してです、「うちの親先生は大きいやら小さいやら分からん」ち、これなんかはもうほんとに、そうしたいわゆる馬鹿と阿呆を表現してある姿であると、私は思うですね。
本当に大きいやら小さいやら分からん、紙一枚のことをやかましゅう言いなさるかと思うや、それこそ、それが数で言うなら億万のことであってもです、知らーん顔してござる。人が心配ならにゃんことを知らん顔してござる、人が腹立てなんときには、惚けんごとしてござる。かというと、もう紙一枚のことにでも、やかましゅう怒られる、かと思うとそうである。うちの先生はつかみ所がない、小さいやら大きいやら分からんと、そういうようなものがです、私は、お道の信心させて頂く者の信条になっていかなければならんとこう思うのです。そういうようなものがです、私は、あの世に持っていけるのだとこう思うのです。そういうような心の上に神様の喜びを表して下さるのです。だから、これだけはあの世に持って行けれるぞと、これだけは持っていけるぞというものがです、私どもの心の中に、だんだん頂けていくことが、それが育っていくことが、本当の幸せ、本当の幸福というものが育っていきよるのだということになるのじゃないでしょうかね。
お道の信心をさせて頂く者の性根というたら、やはり結論に達しますと、あの人馬鹿じゃなかじゃろうかといわれるようなものがです、もう人が喜ぶなら、例えば、もう嘘であっても、喜ぶならどうかしてやらにゃおられんというように、天地の親神様が喜びで開けた道じゃから喜びじゃあ苦労させん、とおっしゃるように、氏子が嘘にでも喜んだら、おかげを下さらなければおられないような、いわば御性分でおありになるようにです、私どももそれに神習わせて頂く、神習わして頂くていうたらおかしいですけど、という心の状態にです、段々近づかせて頂くということ、そういう稽古がなさらなければならんと思うですね。
どうぞ